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被災地・神戸の復興まちづくり


 「大阪保険医雑誌」(大阪府保険医協会)
2005/2月号 特集「阪神大震災以後10年の検証」

被災地・神戸の復興まちづくり

自律と依存の葛藤の中から、新しい地域自治の芽も

市民まちづくり研究所 所長  松本 誠
(元・神戸新聞編集局調査研究資料室長)

 阪神・淡路大震災以降、「復興10年」という時点を常に意識してきたが、まさかこんな状況下で10年を迎えるとは思いもよらなかった。昨年の日本列島は台風、豪雨・水害、地震と相次いで"災害列島"と化し、年の終わりには史上最大の自然災害ともいわれるスマトラ地震&インド洋大津波災害に見舞われた。まさに大規模災害は地球規模に拡大したといえる。
 そんな中で迎えた「KOBEの復興10年」は、いささか色あせした感がなくもないが、復興まちづくりの側面だけをみても、その「光と陰」はこれからの地球規模の災害への対応に大きな課題を投げかけている。否、大震災が20世紀末の歴史的な転換期に起こったというめぐり合わせが、単なる災害対応を超えて新しい社会のあり方に警鐘とヒントをもたらしてくれたものとして、10年目の検証の意義は大きい。
 ここでは、震災の教訓が「復興まちづくりに」にどう生かされたのかを振り返るとともに、住民主体のまちづくりを通じて新しい分権型社会における住民自治の仕組みを模索する復興まちづくりの光の部分を記しておきたい。

            震災の教訓と復興まちづくり

 あの日一瞬にして壊滅状態になった神戸・阪神間を中心にした被災地の近代的な都市は、この10年間に表向きは見違えるようによみがえった。道路や鉄道、港湾、上下水道やガス、通信など壊れた都市インフラはいち早く復旧し、都心には高層ビルやマンションが林立、壊れた住宅も震災前を上回る戸数が新築され、たくさんの空き家が生れるほどで、海外からは「奇跡的な復興」とも称される。
 だが、被災地を仔細に見てみると、復興の状況は一様ではない。被災地全体(10市10町)としては神戸市も含めて震災前の人口を回復したが、もっとも被害が大きく大規模な再開発や区画整理事業がおこなわれた長田区は震災前の8割程度しか人口が戻っていない。

 トータルな数字としての「人口回復」よりも重要なのは、このまちに住んでいた住民がどの程度「もと居たまち」に戻れたかどうか、である。「住民の帰還率」ともいわれるこうした実態は、ほとんどつかまれていない。人口回復が8割程度にとどまっている長田区では、新しい流入人口を引けば、震災前に住んでいた住民の半分程度ともみられ、地域によっては3割程度しか戻っていないところもある。中高層マンションが建ち、まちの様相が一変した灘、東灘区などは、人口は震災前を上回ったものの、住民の顔ぶれが大きく変わった。

 こうした側面ひとつとってみても、震災による滅失住宅戸数の再建や人口の回復、震災直後の壊滅的なまちの状態が見違えるように一新されたとしても、「まちが復興した」とはいえない。10年経った被災地を歩いてみると、裏通りや路地裏に一歩入ったとたん、いまだ癒えない震災の傷跡が目に入る。震災当時の兵庫県知事であった貝原俊民氏も、震災10年を迎えて「震災当初の壊滅的なまちの復旧は成し遂げたが、10年間でめざした"創造的復興"は道半ば」と言わざるを得ないのが現実である。

 阪神・淡路大震災の復興過程で、常に問題にされてきたのは、都市のインフラを復旧・復興する「都市復興」が先行し、被災者の「生活復興」が置き去りにされてきたことだった。10年間に投入されたという16兆円の復興資金の大半は、道路、鉄道、港湾をはじめとした都市のインフラ復旧と公共施設、住宅建設などの"ハード"中心に使われた。
 
 他方、応急仮設住宅に入れず民間借家や公営住宅の空き家に入り自力再建をめざした人や、自宅を再建したがダブルローンなどの多重債務を抱えて困難な生活を強いられた人。住まいの修理をおこなったものの、多額の修理費に苦しんでいる人。職を失ったり、工場や商店など生活基盤をうしない、事業再建の壁にぶち当たり多額の借金に苦しむ中小零細事業者。一家の働き手を失い、家族の生計維持に立ち往生している人。さまざまな生活の困難を抱えた人たちは、生活再建のメドが立たず、未だ"未復興"状態に置かれている。PTSD(心的外傷後ストレス障害)など、10年経っても「心の傷」を癒せない被災者も少なくない。

 震災は世界的な歴史の転換点に起き、日本社会も政治、経済、社会のドラスチックな転換点にあった。とりわけ、経済面ではバブル後不況と経済構造の転換に迫られた最中にあった。震災と不況のダブルパンチの中で、新しい経済の仕組みや産業のあり方の発想転換を図らねばならなかったが、神戸市は空港という都市施設による需要創出効果に期待したり、医療産業都市という外部からの企業誘致によって新しい産業基盤をつくる旧態依然の発想から抜け出られず、被災者の生活復興につながる施策を見出せていない。

 阪神・淡路大震災は「住宅災害」といわれ、狭小・老朽住宅が直撃されて、そこに住んでいた犠牲者の多さだけでなく、そうした住まいを失った人々への新しい住宅供給のあり方が問われた。しかしながら、公的住宅はじめ短期に大量供給された復興住宅の多くは、転換を迫られていた大量・画一の住宅供給が再現され、孤独死や"閉じこもり"などの新たな社会問題を招いた。コレクティブハウジングやシルバー住宅などの新しい試みは一部にとどまり、圧倒的なボリュームゾーンの住宅復興には及ばなかった。

 本来はそうした行政の隙間を縫うように、地域住民による「支えあいのまちづくり」が地域コミュニティーにおけるセーフティーネットを構成するはずだったが、その役割を担う活動に発展したところは一部にとどまった。復興区画整理事業や復興再開発事業など、莫大な公的資金を投入して復興都市計画事業が行われた地域ほど、ハード事業が一段落するとともにまちづくり協議会などの住民組織が解散したり休眠状態に入るところが多く、住民による肝心なソフトのまちづくり事業につながっていかなかったところが多い。

                   教訓は生かされたか

 まちづくりのうえで震災の大きな教訓とされたことは、三つあった。
一つは、より高く、より速く、より便利にという技術や経済効率優先の近代的な都市構造や暮らしのありようを反省し、自然との共生をはかり、集中依存型から自律分散型の都市構造に改めていくこと。
 
 二つ目は、行政や企業組織に過度に依存することを改め、自助・共助・公助の役割分担を見直し、可能な限り「自分でできることは自分でやる」「近隣やコミュニティー、地域社会でやれることは共同しておこなう」ことを基本に、どうしても公的な仕事に委ねなければならないことだけを公的機関に委ねるという分権的、補完性の原理にもとづいた社会の仕組みをつくっていくこと。
三つ目は、そのために住民自治、地域自治の仕組みを再構築していく。住民主体のまちづくり、地域づくりを進めていくこと―だった。

 こうした3つの教訓は、果たして10年間に生かされたのだろうか。

 第一に、莫大な公費を投じて復旧された道路や港湾などの都市インフラは、基本的に従来どおりに復旧され、高架高速道路や高架鉄道が街中を分断し、震災前をはるかに上回る高層、超高層のビルやマンションが林立した。自律分散型の都市構造については、部分的には地域貯水槽などの発想が導入された面はあるが、依然として集中依存型の都市システムは変わっていない。

 高層建築については、阪神大震災では高層ビルの被害が少なかったことから、一部に免震構造を導入した超高層ビルがニョキニョキと建ったが、南海、東南海地震など次の地震では長周期の地震になるため、高層、超高層建築の甚大な被害が専門家から指摘されている。神戸のみならず、東京、大阪も含めて全国の大都市で進められている都心開発で同じような傾向が進んでいることは、今後災害が起きたときには「歴史の皮肉」ではすまされない深刻な事態が懸念されている。

 第二には、阪神大震災が発災した1995年がこの国の地方分権改革のスタートの年と重なったという歴史の偶然と重ね合わせてみると、より大きな意味合いを持つ。地方分権の原理である「補完性の原理」は、「住民に最も身近な教育や福祉、環境、まちづくりなどの行政は、住民に最も身近な基礎的自治体、すなわち市町村が権限と財源をもって責任を持っておこなう」という意味である。しかも基礎的自治体の運営は「住民自治」の徹底が重要な課題であり、"究極の地方分権"は住民自治の徹底であるといわれるゆえんである。

 震災後は、たしかにコミュニティーの大切さがうたわれ、コミュニティーを担う住民・市民の活動の重要性が増し、市民活動やNPOの重視に目が向けられてはいる。しかし、形のうえでは市民活動やコミュニティーの重視が唱えられ、行政も市民・住民との「参画・協働」を掲げてはいるが、まだまだ理念的に緒に就いたばかりで、旧来の「行政主導」下での住民参加の域を出ていないところが圧倒的に多い。住民・市民の側も、旧来の依存体質を払拭できず、住民主体のまちづくりを実践的に取り組んでいるところは、まだ数えるほどである。
 
 そんな中では、三つ目の、住民自治、地域自治の仕組みを具体的なまちづくりの中で生み出していくのはこれからの課題で、具体的な実践事例もまだ一部にとどまっている。しかし、復興10年の後半には、被災地のなかでこうした萌芽が着実に出ており、次の時代をリードしていく「新しい市民社会」の仕組みづくりも芽吹いている。

 次に、10年間の復興まちづくりの中から芽生えている、そうした新しい分権型社会の基礎づくりの動きを概観してみよう。

     新しい地域社会の形成と住民自治の仕組みづくり

 震災復興まちづくりの中で、巨額の公費を投入し行政が重点的に推進した都市計画事業地域や、2万6900戸という公営復興住宅を一挙に建設した復興住宅事業がおこなわれた地域で、事業の一段落とともに住民の活動も収束したところが多かった。ハード優先の事業が住民の自律的な活動を誘発せず、行政依存の体質を温存する結果になったのは当然の帰結とはいえ、残念であった。

 他方、行政による公的資金の投入がおこなわれず、住民の自主的な復興活動に委ねられた地域(いわゆる白地地域)では、いくつかの注目すべき自律的なまちづくり運動が育っている。その典型例の一つが、神戸市須磨区の西須磨地区にみられる。

 人口約8000世帯、2万人の西須磨地区は神戸市旧市街の西端に位置し、閑静な住宅街が密集する古いまちである。ここで新しいまちづくり運動が芽生えたのは震災の直前だった。中心的な役割を果たす月見山連合自治会の改革が始まったところへ、市の幹線道路計画を含めた土地区画整理事業が進んでいることがわかり、火がついた。反対運動に取り組みだした矢先に、震災で地域は家屋の半数以上が倒壊し、たくさんの犠牲者を出した。市は、まちの復興計画を示さないまま、まちの真ん中に3本の幹線道路を建設する計画だけを決めたことから、住民の怒りが燃え上がった。

 道路建設反対運動は今も兵庫県の公害審査会に、3000人を超す住民が紛争調停を申請して対立しているが、住民は他方で公園整備を通じた地域環境や高齢者を地域で支える福祉活動など多彩なまちづくり活動に力を入れて、復興まちづくりにおける「住民主体のまちづくり」の一つのモデルケースをつくり上げてきた。川に沿った公園の震災復旧では住民の手でビオトープづくりに取り組むとともに、高齢者福祉では福祉ネットワーク「西須磨だんらん」を立ち上げ、NPO法人化して高齢者の暮らしをサポートする事業を広げるとともに、地域内の多彩な住民活動をコーディネートするなど住民活動の"下支え"役を担っている。

 西須磨のまちづくりの特徴は、

 ー治会と多様な住民・市民活動がそれぞれの役割を分担してうまく連携している

 道路問題では行政と厳しい緊張関係を続けながらも、環境や福祉などの活動では協調関係をすすめるという柔軟な対応がおこなわれている

 自治会のエリアを超えた地域内の連携を図るためにつくられた「西須磨まちづくり懇談会」(まち懇)が、まちづくりの課題を幅広く住民に提起して取り組みの方向を示し、地域の政策や合意形成を側面から支えていく"コミュニティー・シンクタンク"的な役割を担おうとしている

ことなどが挙げられる。大半の自治会が、地域の課題を総合的に解決し、地域における住民自治の担い手になる機能と能力を持ち合わせていない中で、自治会の改革と地域の多様な住民活動との連携を軸に、新しい「身近な自治」の仕組みをつくりあげようとする試みが、地域内だけではなく全国的にも注目されている。

 神戸では、1960年代末から始まった長田区真野地区のまちづくりが全国的にも住民参加、住民主体のまちづくりのモデルとして高い評価を受けてきた。今回の震災でも、震災当日にいち早く住民組織による対策本部が立ち上げられ、バケツリレーや地域内の工場の自衛消防隊などと協力して火災の延焼を食い止めたり、倒壊した家屋の住民の救出、自宅に取り残された高齢者や障害者のケアなどにも住民組織が全面的に取り組み、食事や救援物資の配布なども自力でおこなった。その後の復興まちづくりでもまちづくり運動の蓄積が発揮された。

 今年、真野まちづくりは40年周年を迎え、住民主体のまちづくりの新たな一歩をめざすが、西須磨は地方分権の流れの中で「地域内分権」を担うコミュニティーべースの住民自治の仕組みづくりに一石を投じているといえる。

 こうした流れは、被災地でも宝塚市がまちづくり条例を制定し、全市の小学校区単位にコミュニティー自治組織づくりに取り組んでおり、住民主体のまちづくりに「財源移譲」や「権限移譲」を付随させる新たな方向へ展望を見出そうとしている。

 90年代に入って広がりつつあった新しいまちづくりへの住民の役割に、震災復興のまちづくりが分権型社会にふさわしい課題と展望を見出したともいえよう。

最終更新時間:2008年01月06日 21時49分31秒