トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ PDF RSS ログイン

西須磨のまちづくり運動から見えるもの


「身近な自治の仕組みづくりへ―震災10年を越えて」
(2006年2月 西須磨まちづくり懇談会・編集・発行)

「住民主体」への模索と実践

西須磨のまちづくり運動から見えるもの

市民まちづくり研究所所長 松本 誠

 日本の政治と行政が「地方分権システム」への移行を宣言してから6年になろうとしている。政府の地方分権推進委員会が「究極の地方分権は住民自治である」と唱えた1996年の中間報告を出してから、間もなく10年の年月が経つ。当初は戸惑いの中で自治体と住民の感度が鈍かった分権改革への動きも、ようやくにして首長も、職員も、議員の中にも、そして住民・市民のなかでも中央集権型社会の限界と決別の必要性が理解されはじめ、分権型社会への模索がはじまった感がある。政治や選挙の場でも、政策を基本に選択をすることの重要性が深まり、マニフェスト選挙への志向は国政から地方政治の場へひろがりつつある。

 そんな中で、試されるのは住民・市民の意識と力量である。「政治や行政のレベルは、それを支える住民・市民のレベルに照応する」といわれるが、そんな現象が全国津々浦々で見られるようになった。地方自治の現場で、住民・市民と行政が互いに鍛え合う姿が見られるかどうかが、“おまかせ行政”から脱却し、自律した住民自治を築けるかどうかのカギでもある。

 阪神・淡路大震災という未曾有の都市災害を体験し、10年におよぶ復興まちづくりのなかで住民主体、市民主体のまちづくりと、新しい社会の仕組みを模索してきた神戸・阪神間の住民にとって、この間の体験は何ものにも代えがたい期間であった。たくさんの犠牲者を出し、生き残った人たちも暮らしと心に大きな傷を抱えながら、「くらしの再生」と「まちの復興」に取り組んできた。震災復興の歩みは、ほぼ同時期に並行して歩んできた地方分権への歩みと軌を一にする。いずれも、住民・市民が主体となった復興と新しい社会の仕組みをめざす、20世紀末から21世紀初頭にかけての世界的な潮流とも重なっていた。

 西須磨のまちづくり運動は、神戸のまちでこの間に生み出された珠玉の活動のひとつといえる。8年前に、同じ「西須磨まちづくり懇談会」が出版した活動の記録「住民主体への挑戦」のなかで、私は「試練を受ける住民主体のまちづくりが、芽を吹くかどうかのキーワードを秘めた住民運動である」と、西須磨に期待する一文を寄せた。

 それから8年。新しい市民社会の仕組みがようやく視野に入ってきたなかで、西須磨の住民が自らの手で震災10年の歩みを総括し、次への課題を提起した本をまとめたことは、数多くの震災10年の検証報告のなかでも光り輝く業績となろう。

 この一文では、西須磨のまちづくり運動を10年余にわたって外から見つめてきた一人として、運動の持つ歴史的な意味と役割、そしてこれから住民自身が乗り越えていかねばならない課題を提起しておきたい。

1.震災10年と西須磨のまちづくり

 阪神・淡路大震災は、都市のあり方や都市でのくらし方に、大きな反省と教訓をもたらした。

 一つは、経済効率優先から安全・安心、ゆとりを優先させた共生社会へ、まちの造り方はもちろん住まい方や働き方、自然とのつきあい方を含めて大きく転換していくことだった。二つ目は、集中依存型社会から自律分散型社会へ、くらしと都市機能に不可欠なライフラインはもちろん行政や企業の仕組み、くらしの仕組みを変えていくことである。三つ目は、社会の仕組みのなかで市民の役割を飛躍的に拡大させ、自律的なコミュニティーの形成と住民自治を高めていくことだった。

 震災後10年の復興過程は、こうした教訓を実際の地域社会や行政組織、企業社会にどのように具体化していくかが問われた日々でもあった。現実に震災後、兵庫県はいち早く「市民主体のまちづくり」や「参画・協働」の推進を行政課題のトップに掲げ、さまざまな模索をしてきた。多様な市民活動が質量ともに拡大し、NGO、NPOとして市民活動の裾野を支えるようになった。

復興と都市計画事業地区の明暗

 阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた被災地の復興まちづくりでは、18の地区で大規模な復興土地区画整理事業が、14の地区で復興再開発事業が計画された。いずれも激甚被災地区を面的に整備する都市計画事業で、莫大な公的資金が投入された。被災直後の電撃的な都市計画決定による事業地区の決定。住民の意思確認を省略した行政主導の復興計画への反発。計画地区への自主的復興活動の規制。そうした手順に対して、当初は住民の反発が相次ぎ、行政との対立が極度に高まった。

 だが、そうした地域では行政側が「二段階都市計画決定」論を持ち出して、計画の骨格こそ譲らなかったが、事業計画個々の細部については次々に変更に応じた。住民側も早期の事業推進による復興を求める空気と公的資金導入のメリットを受け入れるなかで、一部を除き事業は進展し、ハード面での復興は10年を待たずに大きく進展した。

 しかし、「黒地地区」と呼ばれたこうした都市計画事業地区では、震災前に住んでいた住民がもとのまちへ戻る機会が狭まったり、ハード事業の完成が近づくとともに「まちづくり協議会」の運動は急速に収束していった。なかには早々と解散してしまったところもある。まちに人が戻って、まちのくらしが再開してからが、本当の意味でのまちづくり活動がはじまるはずなのに、震災以降の熱心で多様な活動が次第に薄れていったところが少なくない。

 面的復興施策から外れた西須磨の功罪

 西須磨はこうした地区とは対照的な歩みになった。震災前は、幹線道路計画を目途にしたとはいえ、広大な土地区画整理の網をかけて面的整備をする計画が行政から示された。その時点で住民は、地域の中を貫通する幹線道路計画への反発とともに、大きな減歩を伴う区画整理事業そのものにも反対する空気が強かった。だが、震災直後に、市が西須磨を面的復興事業の対象からはずし、家屋の倒壊被害が激しかった幹線道路予定地だけを買収して道路だけを建設する計画に切り替えたことに対して、行政への反発と不信は一層高まった。地域の復興よりも、弱いところを狙い打ちにして、道路さえ通せばよいという市の考え方が透けて見えてきたからだった。市にとっても、権利者が多く面倒な区画整理事業よりも、壊れた住宅を買収していくほうが手っ取り早いと考えたことは容易に想像できる。

 震災による犠牲者数も家屋の被災率も激甚被災地区だった西須磨が、このような扱いをうけたことは、地域の課題と住民の運動の目標をより純化させ、問題を絞り込むのに大きく寄与したといえる。

 第一に、行政と妥協して恩恵を引き出すような発想が皆無になったこと。第二に、まちの復興やまちづくりは、住民自身の手で進めていかねばならないことを自覚しなければならなかったこと。第三には、まちづくりの課題とすすめ方を、受身ではなく能動的に見出していかねばならないことを認識したことだった。

 都市計画事業を背負った黒地地区にくらべると、西須磨には「3つの集中」が欠けた。ハードな復興都市計画事業に見られる「広く世間から注目される注目度」「公的資金の集中投下」「スケジュールに追いまくられて否応なく住民が結集する度合い」である。このことは逆に、事業予算の消化に追われて急ぐことなく、慌てず、マイペースで地道な活動に取り組める状況が生まれることにもなった。道路計画だけに目を奪われず、さまざまなまちの住み良い環境や仕組みを考え、生み出していく行動につながっていった。行政依存を断ち切り、自律的に地域のくらしの条件を住民の手でつくりだしていく、息の長い取り組みを生み出した。

 本書で詳細に10年の歩みが記されているように、西須磨の住民たちはクルマ優先社会と道路のあり方を問い直し、川や公園を再生していく過程で地域内の自然環境を高めていく課題に自発的に取り組み、地域にふさわしい住まいの環境や住まい方の実現に取り組んできた。また、地域における自律した営みを永続させていけるように、コミュニティーの分断をもたらすまちの構造を避け、支えあうくらしの仕組みを生み出したり、地域内から排出される廃棄物の軽減やリサイクルに恒常的、組織的に取り組んできた。そうした延長線上に住民自治の新しい仕組みづくりを模索し、「身近な自治」の試行を重ねてきた。

 西須磨のまちづくり運動の発端は、全国のどこにでもある「道路公害反対運動」や「土地区画整理事業計画への衝撃」であったが、そうした受身の住民運動を震災後10年の新しい息吹のなかで創造的、能動的なまちづくり運動へ発展させ、21世紀社会がめざす住民主体のまちづくり運動の先駆的な足跡を残してきたといっても過言ではない。

2.神戸市行政と西須磨

 神戸市は1970年以降、住民参加のまちづくりの先駆的な都市として知られていた。たしかに1969年末に発足した宮崎辰雄市政は、当時の自治体としては画期的な環境、福祉施策を打ち出し「住民参加の行政」を掲げ、長田区の真野、丸山地区での住民の主体的なまちづくりを高く評価し、行政が全面的に支援して「住民参加のまちづくり」を進めてきたことは間違いない。1982年に全国で最初のまちづくり条例を制定し、まちづくり協議会を住民参加のまちづくりの受け皿とする方式を築き、第1号の真野地区はそのモデルとして全国へのショーウインドーにもなった。

 時は、日本の歴史はじまって以来ともいえる公害反対住民運動が全国的に盛り上がっていた時代で、神戸も例外ではなかった。神戸・阪神沖の新空港計画が持ち上がったときには宮崎市長はいち早く「空港反対」を表明して「革新市長」の仲間入りし、住民運動との二人三脚に転じて、全国的にも珍しい共産党も含む「オール与党」体制の市政をつくりあげた。

形骸化した住民参加方式への対応

 しかし、いつしか神戸市の「住民参加」は形だけ残した“神話”となり、まちづくり協議会も一部の例外を除き形骸化していった。その実態の多くは、西須磨の住民たちが遅まきながら直面した体験と分析に示しているとおり、既存の地域団体を網羅し、都市計画事業の住民側の受け皿として機能させる「行政主導の住民参加方式」という矛盾したシステムに堕してしまった。震災発生時点では、そうした矛盾が頂点に達していた時期でありながら、その矛盾に気づかないまま未曾有の災害からの復興施策を押し通そうとしたことから、震災当初の混乱が倍加した。

 西須磨の住民たちは、その矛盾とからくりを当初から見抜き、自治会組織を後ろ盾に敢然と行政に歯向かったがゆえに、市役所からまちづくり住民組織としての認定を阻まれ、行政との厳しい対立構造をしのいでいくという試練を受けたのであった。
西須磨の運動は、ここでも独自の展開を見出す。

 道路問題では行政と真っ向から対立していても、地域の課題はたくさんあり、どれひとつとして道路問題での対立を理由に手を抜けない問題であった。資源ごみの365日収集システムや日常のゴミ出しステーションの維持管理。公園整備への注文や建設への参画、維持管理などについての行政との協力関係の維持。新しい自治会館の建設や福祉活動の展開。防災・防犯活動なども含めて市役所の関係部局とは協力・協働関係を欠くことができない。「右手で喧嘩しながら、左手では握手して協力する」というスタイルを、住民は当たり前のごとく対応していった。

 まちづくりとは、本来そういうものであろう。ある問題では利害が対立したり、特定の人間同士では意見が合わないからといって、その人と別の問題でも同席できないようでは、まちづくりはできない。人は3人寄れば三者三様の意見や考え方があり、利害も異なる。10人寄れば、まさに十人十色である。住民同士の場合はもちろん住民と行政の関係においても、そうした割り切りと実践を貫いてきたところが、すごいといえる。

 その意味では、道路問題での対立を盾にまちづくり条例にもとづく住民団体として西須磨まちづくり懇談会の認定を拒否し、助成金の支給も拒否した神戸市側の方がいかにも大人気ない対応をおこなったと見られてもやむを得まい。

行政と住民の「協働」

 まちづくりにおける行政と住民の関係について、どうしても触れておかねばならないことがある。

 それは震災後、ほとんどの自治体が「自明の理」のごとく掲げている「参画と協働」という言葉の持つ意味である。震災直後に兵庫県や神戸市がこうした言葉を掲げて、復興まちづくりの姿勢としたときには、あまり矛盾点は表面化していなかったが、震災10年の復興プロセスが後半に入るなかで、次第に行政の考える「参画・協働」と、住民・市民が考える「参画・協働」のずれが目立ってきた。

 参画」については、従来使われてきた「参加」が色あせて、行政主導のまちづくりに「住民も参加する」という意味合いが強かったことなどから「参画」が使われだすようになった経緯がある。参画とは、文字通り「計画段階から参加する」という意味が込められているものだが、行政のなかには未だに「参加」と同じ意味合いで、言葉だけ“グレードアップ”しているとしか思えないところも少なくない。

 協働」については、もっと複雑である。震災当時を挟んで3期12年間神戸市長の座にあった笹山幸俊氏は市長に就任した直後から「協働」という言葉を使っていたと述懐しており、その意味は「市民も行政と一緒に汗をかいて欲しい」ということだと話していた。共に汗をかくことは協働のひとつの側面であることは事実だが、これだけでは協働にはならない。

 協働」の持つ意味については、震災後の数々の実践のなかから、協働を成立させる条件として次の「4つのC」が指摘されている。
  ‐霾鵑魘νし、共に考えて、互いに心を通わせるCommunication
  互いの良さを認め合い、共に尊びあうCoordination
  7弉菽奮から一緒に協議し、共に企画、運営するCo-operation
  ざΔ亡世靴董一緒に働くCollaboration

 笹山氏の「協働」は4つ目のCollaborationにあたるが、本来の協働はこの4つの条件を満足させて初めて成立する。そのための前提条件としては、行政と住民・市民が対等な関係にならねばならず、そのためには圧倒的な格差のある情報の公開・共有に努めることが前提となる。

 言い換えれば、本来の意味での市民の「参画」が行われていなければならない。

 ところが最近、神戸市は「参画と協働」ではなく「協働と参画」という表現をしていることが目につく。2つの言葉の意味合いは必ずしも明確にされているわけではないが、関係者の解説によれば「市と協働する市民には参画してもらう」ということだという。この場合の「協働」が笹山氏のいう「行政と一緒に汗をかく」ということを指すのなら、行政と一緒に汗をかかない、すなわち神戸市のいうことをきかない市民には「参画」させないということになる。

 この解説には思わず耳を疑ったが、よく考えてみるといかにも神戸市らしい体質を表わしたものとして納得できた。神戸市は未だに、神戸空港建設に反対している市民とは対等にテーブルを囲まない。市政の方針に批判的な市民は参画や協働の対象とはしていない節がここかしこに見られる。本来、自治体は意見の違いは政策や考え方の違いとして謙虚に耳を傾けることから住民自治がはじまるといえるが、意見の異なる人たちを最初から相手にしないような姿勢では、住民自治とは程遠いといわざるを得ない。

 市議会の質疑でも、野党の質問には市長が答えないという“不文律”があるかのようだが、こうした市政の体質が西須磨の住民たちに対してもにじみ出たといえよう。

 「住民主体の行政」とは、意見の異なる住民とも真摯に話し合い、行政にとっては手ごわい住民・市民を育てていくことがベースになければ成り立たない。行政の施策を批判する住民・市民を“敵視”するような態度を取るなら、「住民主体の行政」の看板はさっさと下ろすべきである。

3.地域内分権への全国的なうねり

 日本における地方分権への歩みは、政治、経済、社会のすべてにわたって歴史的な転換期に入った1990年代になってから徐々に機運が高まり、阪神・淡路大震災が起きた1995年初めに地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会が発足した。同委員会はI年延長し6年間で6回におよぶ勧告を行い、国と地方の関係を「上下主従」の関係から「対等協力」の関係に転換させるために、“3割自治”に縛りつけていた機関委任事務を廃止し、中央省庁による地方自治体への関与を禁止した。法律にもとづかない、いわゆる「通達行政」を全廃・禁止して地方自治体を中央省庁のくびきから制度上解放した。

 こうした地方分権システムは第一次改革として約500件もの法律の一括改正を経て2000年4月から実施されたが、分権改革への動きと並行して高まってきた「平成の大合併」の動きと連動する形で、「地域内分権」へのうねりが全国的に大きくなってきた。

 地域内分権とは、本来は中央から地方への権限と財源の移譲に伴って、住民に最も身近な基礎的自治体である市町村における「住民自治」を徹底することにつながっている。地方分権の原理である「補完性の原理」(まちづくりや環境、福祉、教育のような最も身近な行政は、住民に最も身近な自治体=市町村が権限と財源を持ち責任を持って行う)にもとづき、市町村に移譲された権限や財源は、さらにコミュニティー単位など自治体の中で地域内に分権を図り、地域や住民・市民でやれることはどんどん委ねていくことを指す。市民一人ひとりの役割を高めていくことから「市民分権」ともいわれる。神戸市のような大都市では、9つの行政区単位に権限や財源を移譲し、行政区単位の自治権を拡大していく(現在はゼロに等しい)とともに、さらに小学校区単位程度の地域自治の仕組みをつくり、重層的な自治をつくりあげていく動きである。

「小さな自治」の提言

 西須磨で「身近な自治」と呼んでいる仕組みづくりは、1999年3月、群馬県の小寺弘之知事が朝日新聞の「論壇」に投稿して掲載された「小さな自治」の具体的な提案でクローズアップされた。都市部では人口1万人程度の小学校区ごとに自治区を設け、3億円ぐらいの財源を市から移譲する。自治区は住民の自治によって、近隣社会の日常生活で住民が必要だと判断するさまざまな事業を行う仕組みである。「自治区」や「3億円の財源移譲」という言葉が注目されたが、提言の真意は、住民の手が届かなくなってしまっている市町村や府県などの「大きな自治」に対して、歩いて行き来できる程度の範囲で行われる住民主体の「小さな自治」も必要ではないかという問題提起だった。

 群馬県ではその後、職員による研究会を設けて2年間にわたる議論を経て「小さな自治のシステムの研究」と題した政策研究報告書をまとめた。全国的に大きな反響を呼び、滋賀県でも県と市町村の企画スタッフや県内のシンクタンクが合同で「身近な自治研究会」をつくり独自の研究を進めてきた。滋賀県の研究グループは西須磨の取り組みに注目し、集団で来神し、西須磨の住民たちと合同で勉強・交流会も開いた。

 中央でも、財団法人日本都市センターが2000年から2ヵ年にわたって「市民と都市自治体の新しい関係構築」について調査研究を進め、「自治的コミュニティの構築と近隣政府の選択」を発表している。

 こうした動きのなかで、政府の地方制度調査会も2003年秋、地域自治組織についての提言をまとめ、2004年初めには地方自治法が改正されて、地域自治組織の具体的な仕組みが法制化された。

 政府が法制化した制度は、市町村合併促進のための合併市町村における法人格を持った地域自治組織と、政令市などの行政区に自治的な機能を強化することを認め、一般の市町村で地域内分権を進める地域自治組織の形成を認めることが主要なねらいである。必ずしも小学校区レベルの「小さな自治」とは一致しないが、とりわけ都市の住民自治のあり方に問題があることが認識されていることは間違いない。

 兵庫県ではすでに、宝塚市が小学校区単位にコミュニティ自治組織づくりを具体化し、条例などによって20の小学校区すべてに広げている。ここ5,6年で、小さな自治の具体化が急速に進んでおり、神戸市では行政の取り組みは見られないが、西須磨では早くからこうした動きを視野に入れて取り組んできたといえる。

震災後の神戸市政批判と連動して

 神戸市では震災後、神戸空港の建設を問う住民投票条例制定の直接請求運動が行われ、30%を超える署名が提出されたが、市長も条例制定を否定し、議会も否決した。大都市における住民投票条例をめぐる署名運動では画期的な動きではあったが、この運動に積極的に参加した西須磨住民も巨大都市における住民意思を反映する仕組みがないことに落胆した。

 これ以外にも、震災後の復興まちづくりでの行政との激しい対立のなかで、「神戸市から独立したい」という自治権の拡大を口にする市民やグループが少なくない。

 神戸市では「まちづくり協議会」の構成でみたように、旧来型の自治会など地縁組織に依存した「住民参加」のシステムに依拠する体質から抜け出ていない。震災後活発になったNPOなどの市民活動との協働は志向しているものの、地域課題や地域コミュニティーでの住民合意では地縁組織依存が多い。

 だが、いま神戸市でも地域社会では大きな地殻変動が進行中である。住民の多様なニーズに対応するには、地縁型組織だけでは対応しきれず、現場ではNPOなどとの連携は少しずつ芽を吹いている。全国的な動向をみても、西須磨型の地域自治活動が今後広がっていく可能性は高い。西須磨の活動は、分権時代の地域内分権の裾野をひろげる原動力になるかもしれない。

4.具体的な自治組織の形成と実現の壁

 西須磨のまちづくり運動は、ここ10数年の全国的な潮流と軌を一にするものであることをみてきた。では、これから「身近な自治」をめざして、具体的な自治組織形成への展望をどう見出すのか。運動への住民の結集をどのように切りひらいていくのか。そのためには、どのような壁を乗り越えねばならないのだろうか。

 地縁組織の改革と知縁組織との連携

 人口約2万人を数える西須磨地区は、地域自治の単位としては町村並みの自治体の規模を有している。「平成の大合併」で、政府は人口1万人を自治体の最小単位として基準を示している。人口だけでいえば西須磨は、三ケタの職員を有する中堅の町規模自治体を組織できる規模である。

 自律的な自治組織をめざすには、地域住民の合意形成を行う組織と日常の自治活動を担う執行組織が必要になる。そのためには既存の地縁組織である自治会組織が住民の意思を代表できる機能を持った組織へ脱皮しなければならない。西須磨地区の中で、月見山連合自治会は10数年におよぶ自治会改革を重ね一定の力量をつくってきたが、その他の地域ではまだまだ改革途上にあったり、いまだ自治会としての機能を発揮できないところも少なくない。NPOなど市民活動を担う知縁組織と自治会の連携が行われているところとなると、まだ数少ない。地域の多様なニーズに応え、複雑で専門的な知識も必要な活動を担っていくには、地縁と知縁の2つの「ちえん組織」の連携を欠くことができない。そのうえで、地域内のあらゆる活動団体を網羅した地域自治の組織をつくりあげていくことが必要になる。

 真野まちづくり40年の秘密

 震災当初、かつて神戸の住民参加のまちづくりの象徴であった長田区の真野地区が注目を浴びた。地震発生後に地域内でも火災が続発したが、地元の企業と連携した自衛消防団が活躍し、住民のバケツリレーで延焼を食い止めた。震災初日に真野まちづくり推進会を中心に対策本部が立ち上げられ、約5000人にのぼる地域住民の安否確認や弁当や救援物資の確保と配達、自宅にとどまっている高齢者や障害者に食事や水を届け、地域ぐるみで支えあう生活支援をやり遂げた。30年におよぶまちづくり活動の地力が非常時に発揮されたものだった。

 当時、西須磨まちづくり運動のリーダーたちは「真野は別格」と、比較の対象にすることを避けていた。地元住民組織の蓄積と全国から支援が集中した分厚い支援体制、マスコミからの注目度など、西須磨とは別世界の活動と見ていたきらいがあった。しかし、年月を経て、隣り合う須磨区と長田区の2つのまちづくり住民組織は、ことあるごとにリーダーたちは交流し、互いの先進性を学びあうことが多くなった。真野のリーダーは「西須磨の方が進んでいる」とエールを交換することもしばしばだった。

 真野地区まちづくり推進会は地区のすべての団体が入った組織で、地区を運営している。2005年11月、真野まちづくり40年、地区計画25年、震災10年の節目を記念した「真野フェスティバル」をおこなった。40年の重みを裏づけているのは地域に根を張ったまちづくり組織の存在感だった。真野まちづくりにコンサルタントとして、実践的指導者としてかかわってきた宮西悠司氏は「住民相互のかかわり方や下町特有の粘っこいつきあいは、思わずたじろぐほどだ。地域がきちんと存在し、地域を代表する自発的な住民組織がしっかりと存在して地域の意思決定の仕組みを持っていることが重要だ」と、真野の秘密を語っている。

多彩な人材、百家争鳴の悩み

 典型的な下町の真野地区と異なり、西須磨は山手の住宅街ともいえる。かつては地域社会に顔を出すことの少なかったインテリ階層が、時代の変化のなかで地域への関心を見せだしている。その意味では、豊富な人材が潜在または顕在し、地域での取り組みも激論が飛び交い、時には“群雄割拠”の風情を感じられる。百家争鳴が深刻な対立に発展することも少なくない。

 本格的な市民社会を未だ体験していない日本社会では、意見の対立を大きな力に収斂させていく手法と経験が乏しい。ともすれば意見の食い違いが“仲たがい”に発展し、地域が潜在的に持つ「市民力」を生かしきれない。逆に、足の引っ張り合いになり、マイナスの方向に作用することも少なくない。西須磨まちづくりの10年は、そうした危機に幾たびも直面し、いまなお克服できていない面も多い。西須磨地域全体からみると、自治会改革や自治会の連携がうまく進んでいないのはこうした遠因もある。西須磨まち懇が「地域代表性の確保」と「地域の合意形成」を「身近な自治の仕組み」の前提として重視した総括をしているのは、そうした背景を押さえているからでもあろう。

365日の自治活動

 震災後、地域コミュニティーの大切さが見直され、都市部では形骸化の激しい自治会を本来の地域自治組織として再生していく課題がクローズアップされている。神戸市には2800もの自治会があるが、大半は「自治組織」という認識や活動の実態は乏しく、戦前から受け継いできた「行政の下請け機関」的な認識が少なくない。

 震災の教訓として自治会が見直されたということは、非常時に地域が一定期間自立していくための自主防災、市民防災の担い手として期待されたからだ。自主防災や市民防災は、定期的な防災訓練や防災機材の備蓄にとどまらず、日常の自治活動の有無、質的なレベルの高さが決め手になる。住まいの環境や共同利用施設の維持管理、公園の管理と活用、高齢者や障害者など災害時に弱い立場になる人たちを日常から支えあう仕組みが地域に備わっているかどうか、機能しているかどうか―などが重要である。

 そうした地域活動のベースに自治会が機能すれば、その延長線上には能動的な自治会をベースに知縁団体を含めた地域内のあらゆる組織が結ばれた「身近な自治」組織が生まれてくる。月見山連合自治会に見られた自治会改革の波が、西須磨全体に広がっていくかどうかが大きなカギになる。

 神戸市内には真野地区をはじめ、幾つかの注目すべき地域自治活動がそれぞれの地域で成果を上げている。同じ須磨区にある北須磨団地自治会(約7000人)は40年近い活動のなかで保育、高齢者、障害者の福祉施設を設立、運営するほか、環境、福祉、教育、文化、レクリエーションなどのソフト分野も自治会で運営してきた。近隣では長田区の御蔵地区、野田北部地区などでも、震災後は自律的な復興まちづくり活動に取り組んでいる。このほか、宝塚の中山台地区では同市の小学校区コミュニティーのまちづくりの先駆的な役割を担っている。

 西須磨はこうした先駆的な地域との交流を深め、互いの課題を交換すると同時に、全国各地に招かれて地域自治組織形成の“最先端”に触れてきた。市民活動・NPOなどでは、地域や国境を越えて交流・連携して力を高めていくのは当たり前の活動になっているが、いま、西須磨のような地縁組織が全国各地で交流会や研究集会に出かけるようになったことは、時代がすでに新しい段階に入っていることを予感させる。

5.コミュニティー・シンクタンクとしての「まち懇」の役割

 まちづくりにおける専門家の役割

 地域コミュニティーにおいて住民自治が機能していくためには幾つかの条件が必要である。

 すでに見てきたように、一つは地域を代表できる自治組織の形成である。二つ目は、自治体行政とのパートナーシップを確立し、それぞれの役割を確実に果たしていく関係性の構築である。三つ目は、そのためには、地域の住民自身が“自治力”をつけることである。地域自治を担っていくための知恵とマネージメント能力、交渉力、そして住民同士あるいは行政や関係する事業者との間で合意を生み出していく「合意形成能力」が必要である。

 こうした課題を実現していくためには、適切なアドバイスやコーディネートを行う専門家あるいは専門的能力を持った人材がかかわることが不可欠である。神戸では震災後、法律や建築、都市計画、税務、不動産などの専門家集団で構成した「阪神・淡路まちづくり支援機構」が住民の復興まちづくりを支援してきた。また、兵庫県や神戸市もまちづくり支援の専門家派遣制度をつくり、登録した専門家を派遣する仕組みを継続している。

 しかし、いずれも特定の事業や課題を前提に、一定期間のオプション的な支援にとどまる。私たちが構想する地域自治組織によるまちづくりは未来永劫続いていく息の長い活動であり、日常的な活動を支援し、アドバイスし、コーディネートしていく機能が必要になる。

 西須磨では震災後、ずいぶんたくさんの専門家がほとんど手弁当で住民たちの活動を支援してきた。これは震災直後の復旧、復興課題を抱えていた時期であり、道路問題や天井川公園をビオトープ化するという突出したテーマがあったからでもある。最近のように、活動が“平時”の状態になると、手弁当による継続的な支援は期待しにくい。神戸には、御蔵地区の「まち・コミュニケーション」のように、現地に居ついたオンサイト型のまちづくり支援NPOもあるが、これは例外的なケースといえる。

 大方の地域にとっては、2つの選択肢がある。一つは地域外の専門家と契約して、恒常的なアドバイザーあるいはコーディネーターとして協力してもらう方法。もう一つは、地域内でそうした機能と役割を果たせる「コミュニティー・シンクタンク」を育てることである。

「まち懇」を自前のまちづくりシンクタンクに

 発足して10年になる「西須磨まちづくり懇談会」(まち懇)は、本書でも触れている通り、途中から後者の機能をめざしてきた。当初は、官製の「まちづくり懇談会」に代わる住民主体の「まちづくり懇談会」として、神戸市のまちづくり条例にもとづく「まちづくり協議会」と同じ役割を果たそうとした時期もあった。しかし、神戸市の抵抗に会い、内部的にも自治会を網羅して代表性を持たせる見通しが欠けたこともあって、途中から「まち協」的な地域代表組織ではなく、自治会同士の連携やNPOとの協働を実現していくための“縁の下の力持ち”的な役割を果たす方向へ転換した。

 自治会の枠組みや所属している団体を越えて、勉強会を企画したり、地域の課題について情報を交換し議論したり、タウンミーティングのような長期的な課題を提起するための事業を展開する。西須磨全域に配布するニュースを発行し、活動の記録を編集した出版を行うなど、企画、学習、交流、討議、提言、情報発信…などの役割を果たす。このような機能と役割を、地域に根づいて果たしていく中間的な支援活動組織を「コミュニティー・シンクタンク」と呼ぶ。もともとはそのような専門家でなくても、活動を重ねていくうちに専門家に負けない人材に育っていくのが、地域に根ざしたまちづくり活動の真骨頂である。

 コミュニティー・シンクタンクとしての「まち懇」が果たす役割は、「PPC機能」といえる。提唱・促進を図る「プロモーター」、自ら演出者として汗をながす「プロデューサー」、地域内のさまざまな団体や人々の調整者として地域の合意形成に役割を果たす「コーディネーター」である。こうした機能を果たす集団を地域内に生み出し、さまざまな団体や人々が総合力を発揮していくように活動することによって、表の役割を果たす地域自治組織がいきいきと動いていくことができる。

 10年を経た「西須磨まちづくり懇談会」はこのような新しい役割をめざして、身近な自治の仕組みづくりの牽引役を担っていくことを期待したい。

最終更新時間:2008年01月06日 21時49分04秒