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まこと日誌


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2007-11-11

半世紀ぶり、悲願の「明石銀座通りの歩行者天国」にがっかり

 今日は「明石市民まつり2007」が好天気に恵まれた中で開催された。
 2001年7月21日の「明石市民夏まつり」の花火大会事件以降「市民まつり」は中断されていたが、2004年8月に会場を明石公園内に移して3年ぶりに再開した。その名も34回にわたって開催してきた「市民夏まつり」から「市民まつり2004」という名称に変更し、従来の呼び物だった花火大会抜きのイベントを重ねてきた。今年は、中心市街地からはずれた明石公園という「街の匂いのしない囲われた空間」での開催に批判や不満が出てきたことから、中心市街地の活性化も視野に置き、会場を駅前中心市街地の銀座通り、観光道路、市役所一帯に7年ぶりに戻した。
 
 再開された「市民まつり」は、事件前の行政主導型から、徐々に民間主導へ移すように努めて、昨年から事務局を民間スタッフが務めるために立ち上げられたNPO法人「明石・まちとまつりプロジェクト」に委託、実施主体は市と同法人で構成する「明石市民まつり実行委員会」だが、運営主体を同法人とし、かつて実行委員会を形式的に構成していた各種団体等は開催協力団体になった。明石市からは3000万円を超える委託費が出されて、今年も市職員を含む500人を超える警備員を配置しての開催になった。

 ところで、今年の開催で注目されたのは、明石駅前のシンボルロードでもある幅30メートルの「銀座通り」を午前10時から午後6時まで車両通行を禁止し、歩行者開放したことだ。7年前までと同じく、銀座通り南詰めから市役所に至る観光道路も同じく歩行者開放し、150軒余りの露店が並んだ。

 銀座通りの歩行者開放は、2,30年前からも地元から要望が出され、私が明石で記者活動をしていた1980年代半ばから5年ぐらいの間にも何とかして実現できないかと地元商店街などと策を練ったが実らなかった。交通規制権限を持つ警察から、バスやタクシーを含めた代替道路がなく、混乱するというのが理由だった。1992年から銀座通りなど商店街一帯で「明石海峡ノミの市」と銘打ったフリーマーケットを毎年5月に開催を始めてからも、地元の切実な要望でもあったが、実現には至らなかった。

 銀座通りを含む駅前通りが現在の30メートル幅の道路に拡幅されたのは半世紀前に遡る。7度の空襲による戦災で焼け野原になった明石駅前一帯は、戦後はバラックが密集し魚の棚を含む商店街一帯はヤミ市と化していた。戦災から間もない1949年(昭和24年)2月20日未明、一帯は駅前大火で再び焼け野原になり、その5月には本格的な復興の象徴として幅30メートルの明石銀座通りが誕生した。2年後に竣工した5階建ての明石商工会館(現在の「らぽす」)には明石デパートが開業し、ともに戦後の復興のシンボルとなった。

 当時はまだ通る車もまばらで、広い車道は小学生になる前後だった私にとっても格好の遊び場でもあった。東京・銀座の向こうを張った柳の並木が通りの風格を高めていたことを鮮明に覚えている。

 この銀座通りは昨年、市の手によって大改造されて、柳の並木が撤去され、車道を右折、左折レーンを整備したり、魚の棚との交差点に信号機付きの横断歩道を新設するなどの大改造を数億円かけて行った。当時、当初は地元商店街との事前の協議や意向調査等を抜きに計画を進めたため、一時ストップし協議の時間は持ったが、シンボル道路を大改造するのに計画段階からの住民参加を欠いていたことに苦言を呈したことがあった。
 改造後の評判は、「巨額の費用をかけて、どこが変わったの?」という声が圧倒的で、そもそも改造のねらいが未だによく分からない。

 いまどきの目抜き商店街の改造を行うとすれば、その目的の第一は、車の進入を極力抑制した歩行者優先の道路にすることである。二つ目は、商店街の買い物環境やアメニティ向上のための沿道整備であろう。銀座通りでいえば、老朽化して薄暗い雰囲気になっているアーケードの撤去または軒高を上げた明るい開放的なアーケード空間に建て替え、緑を増やすことであろう。
 現実の改造は、車道空間はそのままで、アーケード空間も全く触らず、いわば車道の改造と柳並木の緑地の撤去によって、逆にバスストップも含めた車道空間の拡大や車両通行の円滑化をはかる結果になった。

 さて、半世紀を経てはじめて実現した銀座通りの歩行者開放だが、南北200メートルほどの車道の一部にはスーパーカーが展示され、「細工弁天芸能祭(銀座通りエリア)」と題したストリートパフォーマンスが行われていた。12時から4時まで、和太鼓や獅子舞、ロックバンド演奏、ダンスに市長や実行委員長のトークタイムなどのプログラムが12件ほど仕込まれ、路上に立ったままの通行人の塊が取り囲むという感じだった。通り全体としては、ひろびろとした中にポツンと人の塊が見える、寂しい風景だった。

 まつりのステージはほかにも市役所の立体駐車場広場や市役所隣の中崎小学校にも設定されており、実行委員会としては精いっぱいの企画を盛り込んだのだろうが、せっかくの目抜き商店街の歩行者開放が全く生かされていないという印象を受けた。

 現場を見に行く前に半世紀の歩みを振り返りながらわくわくして想像していたのは、車道にはカフェテラスが出て、可動式の植木が持ち込まれた中で、訪れた市民がコーヒなどを楽しみながら通りいっぱいに繰り広げられるパフォーマンスや演奏を楽しみ、アーケード下の歩道や車道の一部にはフリーマーケットがにぎわっているという光景だった。

 残念ながら、期待とは大違いで、カフェテラスも飲食物を販売するショップもなく、市民が参加するフリーマーケットも見当たらなかった。アーケードの下の歩道も、普段よりは人通りが多いが、普段と変わらぬ風景で、商店街もとくに協賛して取り組んでいるようには見えなかった。

 銀座通りはじまって以来の歩行者開放へ向けて、どのような議論や取り組みがあったのかは承知していないが、目抜き商店街の初めての歩行者開放に商店街が特別にかかわっていなかったことは容易に想像できた。商店街やまつりのイベントに、商店街がかかわらず、市役所や行政と連携したNPO主導のイベントを改革しても、せかっくの歩行者開放の成果が生まれず、将来への布石としての“前向きの実験”にはならない。せっかく歩行者開放への努力が実ったのだが、その喜びと価値を地元の人たちが感じられないのでは、次へのステップにつながらないのではないかと危惧する。

 住民参加、市民参画のまちづくりの大事さと落とし穴を、見せつけられたような光景だった。

2007-8-25

川を流域住民が取りもどすための全国シンポジウム

 8月11日から2日間、阿波踊りの熱気が満ち溢れている徳島市の徳島大学で「川を流域住民(あなた)が取りもどすための全国シンポジウム」が開催されました。全国から700名を超える人たちが参加し、半数以上は徳島県外からの参加者でした。私も武庫川流域委員会の委員長としてパネリストの一人として参加し、武庫川流域委員会が何をめざし、どのような取り組みを続けているかを全国に向けて発信してきました。

 河川法改正からちょうど10年。全国津々浦々で川を流域住民の手に取りもどす運動や具体的な河川行政への参画が取り組まれていますが、ここにきて“河川行政の逆流”ともいえる、環境重視と住民参加と逆行した動きが国交省が管理する直轄河川(一級河川)で続出しています。全国シンポはこのような「歴史の流れ」に棹差す動きにストップをかけ、流域住民が川を自らの手に取りもどしていく「流域自治」への道筋を明らかにしようというねらいで、昨年秋から準備されてきました。

 シンポ初日の「河川法改正から10年、それぞれの挑戦」と題したパネル討議には、淀川水系流域委員会の前委員長である京都大名誉教授の今本博健氏、今本氏の後任委員長に8月はじめに選ばれたばかりの元国交省淀川工事事務所長の宮本博司氏、熊本県の川辺川ダムに反対している相良村村長の矢上雅義氏、カヌーイストで吉野川川の学校長を務めている野田知佑氏と私の5名が参加。吉野川シンポジウム実行委員長の姫野雅義氏のコーディネーターで、この10年で人々は何を変えようとしたのか、成功したことと失敗したこと、そして今立ちはだかっている壁は何か、について議論を交わしました。

 討議の詳細は、ロシナンテ社発行の月刊「むすぶ」2007年10月号に収録されています。2日間のシンポジウムの成果は「徳島宣言」にまとめられ、国への意見書も採択しました。いずれにも武庫川流域委員会の成果について触れられています。下記のURLを参照ください。
 
川の全国シンポ 徳島宣言
http://www.daiju.ne.jp/kawashimpo/senngennbunn.pdf
川の全国シンポ 意見書
http://www.daiju.ne.jp/kawashimpo/ikensho.pdf
ロシナンテ社 月刊「むすぶ」2007年10月号
http://www9.big.or.jp/~musub/new.htm

2007-7-19

飛び出す人文・社会科学

 この16日に宝塚・売布の「ピピアめふ」で、小さな討論集会が開かれた。「サイエンス・カフェ:武庫川の総合治水実現に向けて」と題して、20人ほどが4時間近くにわたって議論を繰り広げた。
 日本学術振興会人文社会科学振興プロジェクトの研究事業で、大学や研究機関の研究者と地域住民が興味・関心のある社会の問題について語り合う、一種のワークショップである。「飛び出す・人文社会科学〜津々浦々学びの座〜」と銘打って、全国各地で開催しようとしている。

 今回の「カフェ」を主催したのは「青の革命と水のガバナンス研究グループ」。中心メンバーの東京大学愛知演習林の講師、蔵治光一郎さんによると「青の革命」とは、「緑の革命」(約半世紀前に地球上の人口爆発の将来予測とともに、食料増産を具体化するための灌漑などの技術開発や農薬や肥料の開発が提唱された)をヒントに20世紀の終わりごろから世界的に提唱されている“地球規模”の課題。
 21世紀は地球規模で「水」が大きな課題になり、石油をめぐって争った20世紀に対して、21世紀は水をめぐって争いが起きるとされている。これまで水の確保や制御は土木工学的は技術で一定の成果を得てきたが、もはや、地球規模的にその限界が見えてきた。世界的な乾燥と砂漠化で水が消えていく一方、異常な集中豪雨や洪水が局所的に起こり、その不安が広がっている。自然科学的な技術だけでは解決はむずかしく、政治や法律、社会や経済の仕組み、地域の歴史や文化とも連携し、多様な分野が知恵を寄せ合わせて対応していかなければならなくなっている。水資源の確保と調整、洪水被害などに対応して紛争を回避していくための合意形成が求められている。

 そんなテーマを持った研究者グループと、具体的な武庫川の川づくりに取り組んでいるグループが出会って、開かれたのがこの日の「サイエンス・カッフェ」だった。
討論は、武庫川の川づくりでダム問題を超えて流域圏100万人の住民と自治体が、この川と共に生きていく道筋(川筋?)をどのように切り開いていくか―をめぐって議論がすすんだ。

・武庫川の特徴、流域住民の川に対する誇りや夢をどのようにまとめあげて、住民や自治体の関心を高めていくのか?
・川は、その水によって人々の暮らしが支えられ、流れる水が循環して川と自然の循環系が維持されることによって、流域のまちと暮らしが共存していける。
・川に生息する植物や動物、とりわけ魚が生息し、人の暮らしとつながっている川は、流域住民とのつながりや愛着も深い。
・戦後の武庫川では、川と暮らしのかかわりが希薄になり、流域圏人口の6割を占める下流域の氾濫域でも、武庫川の堤防決壊や越水などの致命的な被害の経験がないことから、武庫川への住民の関心は薄い。
・住民のこころに響く武庫川づくりのキャッチフレーズと市民の自律的な運動、歴史や文化に根ざした運動とともに、武庫川の存在が経済的なインセンティブに結びつくような方策、多様な分野が“融合”した新しい「武庫川学」のような研究組織、総合治水を本気で進めていくための総合治水条例の制定なども必要
――だという議論が交わされた。

 7月6日から全体委員会が再開された武庫川流域委員会は、県が提示した武庫川整備の基本方針原案について、24日の第51回流域委員会から本格的な審議が始まる。委員会のメンバーの多くは、昨年8月の提言書にもとづき、超長期的な武庫川整備の考え方を表す「基本方針」は、武庫川づくりの「憲法」だと思っている。まちづくり、自治体の憲法が「自治基本条例」だとすると、それに匹敵する重い議論がこれから始まるわけだ。

2007-7-10

明石の「欠陥住宅を撲滅する会」がNPO法人に

 8日の日曜日午後、明石駅前の男女共同参画センター会議室で「NPO法人・欠陥住宅を撲滅する会」の設立記念フォーラムと題した集まりがあった。明石の東部、松が丘北町に住む建築家の市成照一さんが、「住まいのドクター・WING」という建築事務所を営みながら3年前から明石を拠点に取り組んできた運動を、NPO法人として立ち上げたものだ。
 彼を支えてきた土地家屋調査士や宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー、そしてNPOセンターや明石のまちづくりを共に担う「まち研」(明石まちづくり研究所)の仲間たちが駆けつけて、新しい出発を祝った。

 市成君は、ひと目会ったら忘れられない人だ。自ら「てるりん」と愛称で呼ぶ。名前の「照一」と丸めた頭をトレードマークにしているのだが、頭を丸めたのは、建築家として欠陥住宅の撲滅に取り組むという決意表明でもある。もとはハウスメーカーに勤めて、建築技術者と営業を掛け持って仕事をしていたが、ハウスメーカー業界の建築倫理観に欠く営業ぶりにいたたまれなくなって、何回かぶつかった後、独立した。一時は業界では常識でもあった一級建築士の“名義貸し”業務にも矛盾を感じ、そうしたやり方が欠陥住宅蔓延の温床になっていることに気づき、自ら名義貸し拒否を宣言し、業界から事実上締め出された。

 3年前の年初め、欠陥住宅撲滅に取り組むことを“天の声”と決め、頭を丸めて奔走をはじめた。大阪や明石で何人かの人たちにめぐり合い、2004年の秋から本格的に明石から運動を始めた。その人的ネットワークに、私をはじめとした「まち研明石」のメンバーもいた。

 会合で指名を受けて、私も欠陥住宅との古くからのかかわりを紹介し、連帯感を表した。私が欠陥住宅に遭遇したのは、もう四半世紀も前になる。明石駅前の分譲マンションに住んでいたころの1980年ごろのことだ。管理組合の役員が回ってきて、長期修繕計画について議論していた際に、断熱材の施工不良から結露が激しいだけでなく、外壁のクラックなどにも影響していることがわかり、専門家に鑑定を依頼し、大手の施主や施工者との交渉で瑕疵責任を認めさせた経験である。

 この過程でめぐり合った人たちで当時発足したのがマンション管理組合の連合体の草分けである「関西分譲共同住宅管理組合協議会」(関住協)であり、3年後に立ち上げた「マンションドクター」の集合住宅維持管理機構である。もう20年、25年の長きになるが、マンション暮らしから戸建住宅に移っても、いまだにこの二つの団体の役員を続けている。居住形態はどうあれ、住まいが暮らしの基本であり、まちづくりやコミュニティーの要であるからである。

 関住協も集合住宅維持管理機構も欠陥建築にもかかわることが少なくないが、市成君の戸建住宅を中心にした欠陥住宅撲滅運動とも接点が生まれたのは、歴史のめぐり合わせなのだろう。喜んで賛助会員に加えていただいた。
 「明石発」の欠陥住宅撲滅運動が、何らかのインパクトを与えていくことを期待したい。

2007-7-8

宇沢弘文氏との再会

 昨日7日の「七夕」は、京都の同志社大学で開かれた8月11日に徳島で開催する「川を流域住民(あなた)が取りもどすための全国シンポジウム」実行委員会に出席した。3月に次いで2回目の実行委員会で、40名余の蒼々たるメンバーが全国各地から参加した。
 すでに376人の呼びかけ人が登録し、徳島県外からの参加申し込みは250人を超え、徳島県内の参加者目標800人と合わせて1000人を超す大規模なシンポジウムの準備が着々と進んでいる。

 シンポジウムは1997年の河川法大改正以降、環境重視と住民参加の流れが河川管理にも導入され、淀川や武庫川で流域委員会方式が推進されてきたが、昨年あたりから国交省が淀川や吉野川、利根川などでの流域委員会方式を拒否し、川辺川をはじめ全国各地で川づくりを“逆流”させようとする動きが顕著になったことから、全国シンポジウムが計画された。

 このシンポの実行委員会委員長には、世界的な経済学者である宇沢弘文氏が就任している。70年代の初めに「自動車の社会的費用」(岩波新書)を著し、早くから炭素税を提唱していた環境派の経済学者で、前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世の回勅「レールム・ノヴァルム」(1991年5月15日、主なテーマは「社会主義の弊害と資本主義の幻想」)について、法王に招かれ進講したことでも有名な学者である。また、成田空港の建設をめぐって当時の運輸省と空港反対同盟の対立が膠着状態になっていたときに、すでに亡くなった経済学者・隅谷三喜男氏とともに和解のためのラウンドテーブルをつくり、歴史的な和解を導き出したことでも有名である。

 宇沢氏が、この時期に「川づくり」の運動に参画し、その代表格を引き受けたのは、氏の提唱している新しい歴史観であり、21世紀の政治、経済的な仕組みでもある「社会的共通資本」の理論にとって、川が大きな役割を果たすからである。宇沢氏は社会的共通資本について、次のように書いている。

 社会的共通資本というのは、リベラリズムの理念にかなうような経済社会を実現するために重要な役割を果たす資本とか資源、サービス、モノを、社会にとって共通の財産として大事に管理・維持していこうという考え方です。具体的には、まず第一に、自然環境、大気や森林、土壌や水などの自然環境です。第二に、社会的インフラストラクチャー。これを社会資本と呼ぶ人もいますが、そうするとどうしても土木工学的な面が強調されてしまうように感じますので、少し長いですが、私は社会的インフラストラクチャーという言葉を使うことにしています。これは道路、鉄橋、公共的な交通機関、電気・ガスその他の普通のインフラです。重要なのは、それらがどういうルールで運営され、どういうふうにして供給されているかも含めて考えることです。第三は制度資本です。教育とか医療、金融、資本といった社会的制度を社会的共通資本として位置付け考えていこうということです。(『経済セミナー』2003年8月号(日本評論社)pp.38-44)

 宇沢氏はまた、伝統的な「コモンズ」の概念も、社会的共通資本に関連づけて説いている。コモンズというのは、自然環境をうまく、安定的に、そして持続的に管理していくための組織の総称であり、よく例に出される日本のコモンズは、濯漑用の溜池の管理とか、森林の入会制度、漁業協同組合の漁場の入会制度などが、それにあたる。官僚に管理を委ねるのではなく、生産現場と暮らしが密着した住民の自主的な共同体が、自然と共存しながら自律的に管理していく仕組みを有していたからである。

 「川」はまさしく、その象徴的な存在でもあるから、氏の唱える「社会的共通資本」を具体的に考える最も有効で、分かりやすい“現場”であるということなのだろう。その川が、1997年の大きな転換を経たにもかかわらず、いままた官僚の手によって“逆流”させられようとするのを座視していられないという思いが、79歳にして実行委員長を引き受けることにつながったのだと信じている。

 私が「社会的共通資本」と宇沢さんにめぐり合ったのは、阪神・淡路大震災から5年を経た2000年のことだった。当時、仕事をしていた神戸新聞情報科学研究所で震災5年をテーマにしたシンポジウム「震災から芽生えた『新しい地域社会像』を考える」という企画を進めていた中で、基調講演には内橋克人氏か宇沢氏しか適任者はいないと決めていた。旧知だった内橋氏の日程がどうしても取れず、内橋氏からも私の判断に誤りはないと力強い支持をいただいたこともあって、宇沢氏との接触に努めた。とはいっても、まるで雲の上の存在のような学者で、海外に出ていることが多く、つかまえるのに往生した。何人かの仲介協力者を得て、やっと秋に出入国の間に東京で面会することができ、快諾を得た。

 氏は鳥取県の出身で、京都大学の卒業ではあるが、関西での講演は少なく、どうしたら神戸に来てくれるかをあれこれ考えながら、震災後の被災地が「新しい市民社会」のモデルづくりに市民が奔走していることなどを説明した。後から振り返ると赤面する思いだが、その心が通じたのだと思う。

 シンポジウムは2001年2月2日、神戸・ハーバーランドのホテル・ニューオータニで開催し、その詳細は同年11月に出版した「21世紀社会の構図」(文理閣)に、シンポジウムの位置づけなどを加筆し、まとめた。書名は、宇沢氏にお願いした基調講演のタイトルからとったものだ。

 あれから何回か氏の講演を聞く機会があったが、昨日の再会では、新たな発見をした。相変わらずの官僚批判は変わらなかったが、出席していた多くが新しい川づくりにそれぞれの地域の現場で住民の視点から頑張っている人たちだけに、発言の一つひとつに老学者は共感の言葉を贈り、戦後の科学者の責任を鋭く突いていた。経済学者の頂点に立つ氏から「科学者はもっともっと、暮らしと生産の現場で頑張っている人たちに学ばねばならない」という言葉を聞いたのは、新鮮だった。

 震災後の被災地では、少なからざる研究者たちが科学者の責任について自らの足跡を振り返って反省し、市民との協働を語る場面に出くわしてきたが、同じ言葉を宇沢さんからも聞こうとは予想していなかった。時代の大きな変化を、あらためて感じたひとときだった。8月のシンポジウムが楽しみである。

最終更新時間:2008年01月06日 21時51分39秒